読書の秋、なんで、文章賛歌。
もっとも、
卒論関係以外は、最近あんまり読書とかしてないけどw
とゆーわけで、最近心に残ってるの、といっても1ヶ月前に読み終わった例の本くらい。
「頻伽の声を聞いたのだから、われわれはもう天竺へついたも同然さ。」
ふたりはそういって、ようやく気がついたように、だまって親王の骨を拾いはじめた。
モダンな親王にふさわしく、プラスチックのように薄くて軽い骨だった。
澁澤龍彦「高丘親王航海記」より
つくづく、世の中には、鳥肌の立つ文章と言うものがあるのだなあ。と。
上記引用のラスト一行の衝撃波が強くてリアルに失禁しそうになりました。
こういう、読書してるときの、ふいにくる息の詰まる感覚がすき。
映画を見てても「この一瞬!」てやつはあるんだけれど、
映像ってやつは、音やら絵やらと情報が多すぎて、
活字の羅列である文章の方が、共感のありかたが鋭くって純化されている感じがする。
うまくいえないけど。
読書するとき、映像やら音やらはコトバを媒体にして、自分の中で再構築されるわけで、
コトバに対する意味づけ、解釈や思い入れっていうのは個人によって異なるものだから、
あたしは、文章の作者でなくても、その再構築した世界の作者のひとりには、なってる気になってしまう。
ある意味で「オリジナル」であるその世界に、あんまりもふさわしい新たなコトバがおりたつと、
だから、その世界がもともと文章の作者のものであることも忘れて、
どうして作者は、「あたしの世界」のことをこんなに良く分かってくれているんだろう、なんて思ったりして、
「キターーーーーーー!」と狂喜乱舞しちまうのです。
「この文章のこの感じ、私以上に共感して震えているやつはきっと世界でもいないに違いない」
という、読書中の興奮した勘違いは、誰もが経験するものだと思うけれど、
そういうのは、文章ってやつが、このような共同作業システムを根本とする点によるところが大きいんだろなあ。
・・・
なんて、
うん。
自分で言ってて良く分からなくなってきた!
とりあえず、読書の秋を全うすべく、今年も全力で引きこもりたいと思います!(何宣言?)
秋は短し歩くな乙女!
「読書の秋」と「食欲の秋」を採用して
「スポーツの秋」を不採用にするから太る太る!
あっという間に、「記憶スケッチ」で知って以来憧れつづけていたナンシー関です!
もちろん、消しゴム技術や観察力や文章力が、じゃなくて体型だけが!(故人に失礼)
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