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いきあたりばっかり。 いっつおーるらいと。
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バイトの給料日が過ぎたことに、はたと気づいて、

おっしゃあ~食べまくろう

なんていきごんで王将に入ったら、季節外れの生ビールフェア。

偶然にも、最近はぎんぎんと空気が凍っていた外の空気が、今夜はなまぬるい。
ビール日和だ。

深夜の、薄汚れたジャンバーのおっちゃんしかいない、ヒジョーに快適な雰囲気の中、
店内音楽は懐メロ特集で、RCサクセションのあとに中森明菜がかかったりする。


冷えたジョッキの中、一日の疲れが、温暖化してる南極の氷のようにがらがらと崩れていくのを感じながら、

ああ、すばらしくてnice choiceな瞬間!(意味違)

気分は、ザ低温エクスタシーで(あ、的確な造語)

やばい、たぶん、今、人生を季節に例えたら完全にはるだ。



20歳を過ぎてからあんまり怒った記憶がない。

感情がないわけじゃないけど、温かい水が根底をいつも流れていて、その上に喜怒哀楽がある感じ。

そんなわけだから、(こんなことを言うとかなり失礼なんだけど)
ちょっとは、たまには、涙が出るほど人を憎んだり、震えるほど怒ったりしてみたい、と思うくらい。

もちろんそのシアワセを支えてくれる家族やらの存在は、一番大きい。
そう、ありがたいことに、みなさまのおかげで、死ぬほど恵まれている。
今なら母親の前で堂々と海援隊が歌える(え?)


ただ、自分の中身もやっぱりちょっとだけ変わったのは確かだ。

昔からちゃらんぽらん、えへらえへらとした精神構造だった気もするけど、
10代の頃は、それなりにフツフツとしたものがあった。

家族に、コミュニティに、社会に、そして自分にも、
人並み程度には、10代しゃべり場!な痛さと勢いでもって悶々としていたはずだ。

当時はそれを思春期と呼ぶのをためらったけど、
なにも極端に中二病したりすることだけがきっと思春期じゃないんよね。

角が取れて「丸くなる」というからには、なにかしら尖った部分が、
鱗がはがれるようにぽろぽろと落ちるものだと思っていたんだけど、

実際は川原の石が上流から転がって形を変えていくようで、
なにが「角」だったのかすらもう分からなくなってしまった。

10代のあの時だけが持ち得た、表現能力や感受性があったのだろう、と言う意味で、
失われた悶悶悶悶がちょっと恋しい今日この頃。

川原の石を海にぶっこんだらどうなるのか知らないけれど、
社会に出て働き始めたら、また何かが変わるんだろう。

やっすいガムのようにまもなく味が薄まってしまうだろう、
この学生限定の生ぬるいシアワセを、今はありがたく頂戴してかみ締めようか。

で、何がいいたいかというと

らもさんのエッセイ本「愛をひっかけるための釘」がすき。


子供と言うものが目に見えるようにニョキニョキと大きくなっていくのは、彼らが内に抱いている「怒り」のせいではないか、と僕は考える。大人のむら気や虫の居所のせいで理不尽な叱られ方をするたびに、子供は自分が子供であることに耐えられなくなる。――「今に見ていろ」という怒りや悲しみが彼らの背を日ごとにのばしていくのではないだろうか。  【怒る子は育つ】より


この文を読むと、私はいつも10代特有の焦がれるような悶悶のことを懐かしく思い出す。


ま、私の場合は、例えば親の理不尽さとかに対しては、子供だから我慢するしかない、というより、学生したくて進学したいから我慢するっていう打算があった分、純粋じゃないんですけど(笑)


ちなみにこのエッセイはこのように結ばれている。

――そうしてやっとこさっとこ大人になってみて彼らは愕然とするのだが、大人になったから理不尽な叱られ方をしなくてすむなどということはまったくないのだった。――これに気づいたときの元・子供の絶望は大きい。いくら怒りをたくわえても、もう背はのびないのである。たまにメリメリッと背中で音がするので喜んで鏡を見てみると、それは伸びているのではなく、背骨が縮んでいく音なのであった。







この本には「空気が冷たく澄んで星の美しい季節になった。」ではじまる、
らもさんのベストエッセイとの呼び声も高い「サヨナラにサヨナラ」も収録されていて、これからの季節にはぴったりだ。

 
たとえば我々は太陽を見るが、それは厳密に言えば今から八分前の太陽の姿である。遠い丘の上で恋人がこっちに向かって手をふっているのが見える。その丘が1キロメートル向こうだとすると、その恋人の姿は光速の「二九万九000キロメートル分の一秒前」の姿である。海外へ電話をすると、相手の答えがほんの少しの間合いでずれるが、あれをもっと微細にしたようなことが視覚の世界でも起こっているわけだ。たとえ僕の目の前のテーブル越しに、愛する人が笑っていたとしてもそれは「無限分の一秒」過去の笑顔なのである。
 人間の実相は、刻々と変わっていく。無限分の一秒前よりも無限分の一秒後には、無限分の一だけ愛情が冷めているかもしれない。だから肝心なのは、想う相手をいつまでも腕の中に抱きしめていることだ。ぴたりと寄りそって完全に同じ瞬間を一緒に生きることだ。二本の腕はその為にあるのであって、決して遠くからサヨナラの手を振るためにあるのではない。  【サヨナラにサヨナラ】より


おっちゃん、名文です。

こういう、歯の浮くようなこと書いといて、
愛人ざくざく父親不適格人間失格(押韻)な生活を送っていたんやから、背骨も縮んで当然かもねwなんて。


あ、気づけば最長記事?











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無題
らもさんの最後の言葉で不覚にも泣いてしまったのはアルコールのせいだ。




悔しいぜ。

たにぐち 2007/10/24(Wed)22:26:43 編集
無題
わ。たにぐちという響きが懐かしい(笑)

サヨナラだけが人生だったら悲しすぎるもんな。
まるさ 2007/10/27(Sat)01:57:24 編集
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