忍者ブログ
いきあたりばっかり。 いっつおーるらいと。
[11]  [12]  [13]  [14]  [15]  [16]  [17]  [18]  [19]  [20]  [21
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

風邪がはやっていますな。

寒い夜、隊長と運動するのは面倒なので、

発泡スチロールのケースにお湯をためて、足だけつけて生きています。

これがどうしてあったかい。

足だけなのに、体が芯からホカホカになるんです。

とーかんそくねつ。

そいえば、

「オレは風俗王になる!」みたいなノリのドラマ「黒い太陽」を最近まとめ見してるんですけど、

永井大が、自らのプライドをも棄ててのし上がっていく場面、

なんども全裸になりながら、どうしても靴下
だけ脱がないので、

おいw

と思ってたんですが、

というのもやっぱ、足は大切ってことなんですよね!

股間さらしてキャバ嬢に土下座したら、プライドはなくなるけれど、

靴下はいてる限り、ぬくもりはなくなりませんもんね!

風邪とか引いてしまった日にゃ、人間、這いつくばってがんばれませんからね!

さすが!健康的なドラマだなあ!(違)



というわけで、ブーツの下なのに分厚い靴下をはきこんだあたしは、

今日も足元ぱっつんぱっつんしながら生きてまふ。

魚屋ブーツ団、団員募集中。

PR
まだ11月にもなっていないのに、

部屋の中が寒すぎるので、

運動したらあたたまるかも、というエコロジカルな発想のもと、

・・・ビリー隊長をやりました。

いまさらかよと・・・

朝寝坊して終電を逃すくらいの、見事な乗り遅れっぷりです。

結果:体力以前にリズム感がなさすぎてついてゆけませんでした。

というわけでG.I.ジェーンのデミムーアには、なれません。

どっちかていうと稲村ジェーンです。

あ、でも体はあたたまりました。

メリージェーン。

バイトの給料日が過ぎたことに、はたと気づいて、

おっしゃあ~食べまくろう

なんていきごんで王将に入ったら、季節外れの生ビールフェア。

偶然にも、最近はぎんぎんと空気が凍っていた外の空気が、今夜はなまぬるい。
ビール日和だ。

深夜の、薄汚れたジャンバーのおっちゃんしかいない、ヒジョーに快適な雰囲気の中、
店内音楽は懐メロ特集で、RCサクセションのあとに中森明菜がかかったりする。


冷えたジョッキの中、一日の疲れが、温暖化してる南極の氷のようにがらがらと崩れていくのを感じながら、

ああ、すばらしくてnice choiceな瞬間!(意味違)

気分は、ザ低温エクスタシーで(あ、的確な造語)

やばい、たぶん、今、人生を季節に例えたら完全にはるだ。



20歳を過ぎてからあんまり怒った記憶がない。

感情がないわけじゃないけど、温かい水が根底をいつも流れていて、その上に喜怒哀楽がある感じ。

そんなわけだから、(こんなことを言うとかなり失礼なんだけど)
ちょっとは、たまには、涙が出るほど人を憎んだり、震えるほど怒ったりしてみたい、と思うくらい。

もちろんそのシアワセを支えてくれる家族やらの存在は、一番大きい。
そう、ありがたいことに、みなさまのおかげで、死ぬほど恵まれている。
今なら母親の前で堂々と海援隊が歌える(え?)


ただ、自分の中身もやっぱりちょっとだけ変わったのは確かだ。

昔からちゃらんぽらん、えへらえへらとした精神構造だった気もするけど、
10代の頃は、それなりにフツフツとしたものがあった。

家族に、コミュニティに、社会に、そして自分にも、
人並み程度には、10代しゃべり場!な痛さと勢いでもって悶々としていたはずだ。

当時はそれを思春期と呼ぶのをためらったけど、
なにも極端に中二病したりすることだけがきっと思春期じゃないんよね。

角が取れて「丸くなる」というからには、なにかしら尖った部分が、
鱗がはがれるようにぽろぽろと落ちるものだと思っていたんだけど、

実際は川原の石が上流から転がって形を変えていくようで、
なにが「角」だったのかすらもう分からなくなってしまった。

10代のあの時だけが持ち得た、表現能力や感受性があったのだろう、と言う意味で、
失われた悶悶悶悶がちょっと恋しい今日この頃。

川原の石を海にぶっこんだらどうなるのか知らないけれど、
社会に出て働き始めたら、また何かが変わるんだろう。

やっすいガムのようにまもなく味が薄まってしまうだろう、
この学生限定の生ぬるいシアワセを、今はありがたく頂戴してかみ締めようか。

で、何がいいたいかというと

らもさんのエッセイ本「愛をひっかけるための釘」がすき。


子供と言うものが目に見えるようにニョキニョキと大きくなっていくのは、彼らが内に抱いている「怒り」のせいではないか、と僕は考える。大人のむら気や虫の居所のせいで理不尽な叱られ方をするたびに、子供は自分が子供であることに耐えられなくなる。――「今に見ていろ」という怒りや悲しみが彼らの背を日ごとにのばしていくのではないだろうか。  【怒る子は育つ】より


この文を読むと、私はいつも10代特有の焦がれるような悶悶のことを懐かしく思い出す。


ま、私の場合は、例えば親の理不尽さとかに対しては、子供だから我慢するしかない、というより、学生したくて進学したいから我慢するっていう打算があった分、純粋じゃないんですけど(笑)


ちなみにこのエッセイはこのように結ばれている。

――そうしてやっとこさっとこ大人になってみて彼らは愕然とするのだが、大人になったから理不尽な叱られ方をしなくてすむなどということはまったくないのだった。――これに気づいたときの元・子供の絶望は大きい。いくら怒りをたくわえても、もう背はのびないのである。たまにメリメリッと背中で音がするので喜んで鏡を見てみると、それは伸びているのではなく、背骨が縮んでいく音なのであった。







この本には「空気が冷たく澄んで星の美しい季節になった。」ではじまる、
らもさんのベストエッセイとの呼び声も高い「サヨナラにサヨナラ」も収録されていて、これからの季節にはぴったりだ。

 
たとえば我々は太陽を見るが、それは厳密に言えば今から八分前の太陽の姿である。遠い丘の上で恋人がこっちに向かって手をふっているのが見える。その丘が1キロメートル向こうだとすると、その恋人の姿は光速の「二九万九000キロメートル分の一秒前」の姿である。海外へ電話をすると、相手の答えがほんの少しの間合いでずれるが、あれをもっと微細にしたようなことが視覚の世界でも起こっているわけだ。たとえ僕の目の前のテーブル越しに、愛する人が笑っていたとしてもそれは「無限分の一秒」過去の笑顔なのである。
 人間の実相は、刻々と変わっていく。無限分の一秒前よりも無限分の一秒後には、無限分の一だけ愛情が冷めているかもしれない。だから肝心なのは、想う相手をいつまでも腕の中に抱きしめていることだ。ぴたりと寄りそって完全に同じ瞬間を一緒に生きることだ。二本の腕はその為にあるのであって、決して遠くからサヨナラの手を振るためにあるのではない。  【サヨナラにサヨナラ】より


おっちゃん、名文です。

こういう、歯の浮くようなこと書いといて、
愛人ざくざく父親不適格人間失格(押韻)な生活を送っていたんやから、背骨も縮んで当然かもねwなんて。


あ、気づけば最長記事?











やっちまった。

ぜってーいかねえ!と決めていた、吉井さんのソロライブ行っちゃった。

イエモンというバンドは、中学生の私の中で、

青春すぎて、完璧すぎて、神すぎて、まあ重度の恋だったゆえ、

ソロで、違うメンバーとイエモン時代の曲やられたら、なんか微妙だから今まで行かなかったのだけど。

うーむ、初恋の人と不倫関係におちいったような気分です。(どんなだ)

隣の席の、男のお二人組さんが、

「俺は何でも知ってる往年のファン」的でアイタタな感じの会話をずっとしていてアレだったんですが、

わりといい人で、

最後はなぜか握手して帰ってきました。

らぶこみゅにけーしょん。


君がだいじにしているものほど 

これからも さらに 奪われていくだろう 

でも 生きていかなくちゃなあ

オアシスの「don't look back in anger」のカバー(日本語詞・一部空耳アワー)のこの部分!!

読書の秋、なんで、文章賛歌。

もっとも、

卒論関係以外は、最近あんまり読書とかしてないけどw

とゆーわけで、最近心に残ってるの、といっても1ヶ月前に読み終わった例の本くらい。



頻伽の声を聞いたのだから、われわれはもう天竺へついたも同然さ。」
ふたりはそういって、ようやく気がついたように、だまって親王の骨を拾いはじめた。
モダンな親王にふさわしく、プラスチックのように薄くて軽い骨だった。
                                    澁澤龍彦「高丘親王航海記」より

つくづく、世の中には、鳥肌の立つ文章と言うものがあるのだなあ。と。

上記引用のラスト一行の衝撃波が強くてリアルに失禁しそうになりました。

こういう、読書してるときの、ふいにくる息の詰まる感覚がすき。

映画を見てても「この一瞬!」てやつはあるんだけれど、

映像ってやつは、音やら絵やらと情報が多すぎて、

活字の羅列である文章の方が、共感のありかたが鋭くって純化されている感じがする。

うまくいえないけど。

読書するとき、映像やら音やらはコトバを媒体にして、自分の中で再構築されるわけで、

コトバに対する意味づけ、解釈や思い入れっていうのは個人によって異なるものだから、

あたしは、文章の作者でなくても、その再構築した世界の作者のひとりには、なってる気になってしまう。

ある意味で「オリジナル」であるその世界に、あんまりもふさわしい新たなコトバがおりたつと、

だから、その世界がもともと文章の作者のものであることも忘れて、

どうして作者は、「あたしの世界」のことをこんなに良く分かってくれているんだろう、なんて思ったりして、

「キターーーーーーー!」と狂喜乱舞しちまうのです。

「この文章のこの感じ、私以上に共感して震えているやつはきっと世界でもいないに違いない」

という、読書中の興奮した勘違いは、誰もが経験するものだと思うけれど、

そういうのは、文章ってやつが、このような共同作業システムを根本とする点によるところが大きいんだろなあ。

・・・

なんて、

うん。

自分で言ってて良く分からなくなってきた!

とりあえず、読書の秋を全うすべく、今年も全力で引きこもりたいと思います!(何宣言?)

秋は短し歩くな乙女!

「読書の秋」と「食欲の秋」を採用して

「スポーツの秋」を不採用にするから太る太る!

あっという間に、「記憶スケッチ」で知って以来憧れつづけていたナンシー関です!

もちろん、消しゴム技術や観察力や文章力が、じゃなくて体型だけが!(故人に失礼)

 

プロフィール
HN:
まるさ
性別:
非公開
自己紹介:
カレンダー
02 2025/03 04
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31
ブログ内検索
Template by Crow's nest 忍者ブログ [PR]